ダビデの子の罪深い生まれ
1サムエル12:1-25 これは、「壮大な罪とキリストの栄光にあるその世界的規模の目的」と呼ばれる7つに分かれたシリーズの、6番目のメッセージです。このメッセージを「ダビデの子の罪深い生まれ」と題します。ポイントは、イスラエルの王位、つまりイスラエルに王たちがいたという事実は、罪のためであったということです。神の民がその造り主であられ、贖い主であられる方に、「私たちは他のすべての国のようになりたい、あなたに私たちの王であって欲しくはありません。人間の王が欲しいのです」と言うこと自体、壮大な罪でした。本当に壮大な罪です。サムエルは17節で、大きな悪 1 と呼びます。とは言っても、もしイスラエルに王位がなかったなら、イエス・キリストはイスラエルの王として、またダビデの子として、そして王の王として来られることはありませんでした。しかしイスラエルと全世界の上にあるキリストの王位は、神の後からの思いつきではありません。それはイスラエルの罪に応答した、計画外の応答ではありませんでした。主のご計画の一部だったのです。
なぜこのように成されたのか?
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が来るのをすでにお見通しで、それが起こることをお許しになり、それゆえイスラエルの王位を、キリストを王の王としてその栄光をたたえるというご自身の計画の一部とされたのであるならば、なぜ最初から単純に、その王位をイスラエルを統治するものとされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょうか?その後、ヨシュア、そしてその他の人々とされなかったのでしょうか?なぜ最初から直接的王位を計画されず、壮大な罪を通してイスラエルの後々の歴史に、人間の王位を採り入れようと計画されたのでしょうか?
アブラハムと来るべき王位
ストーリーそのものから始めましょう。創世記12章で、神はアブラムをイスラエルの民の父としてお選びになり、彼の子孫を通して全世界のすべての民族が祝福されるとお約束になります(創世記12:1―3)。メシアであられるイエス・キリストは、この系列を通して来られます。
アブラムに起こる最初の出来事の一つは、創世記14:18で、メルキゼデクという名の奇妙な人物に出会うことです。彼は「いと高き神の祭司」、また「シャレムの王」と呼ばれます。その名は「義の王」を意味します。新約聖書のへブル書の著者は、メルキゼデクをキリストの予型、あるいは予表と見ています。なぜなら詩篇110:4で、来るべき救世主的王は「メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司」だからです。ですからへブル書では、「このメルキゼデクは、・・・その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。・・・神の子に似たものとされ・・・」(ヘブル7:1―3)と言われています。
ハンナと来るべき王位
それゆえ神のみむねの中では、来るべきメシアは、祭司であり王であるのです。その方が王となるのは後々に決断されたのではありません。私たちはこれをサムエルの誕生と献児に再度見ます。サムエルの母ハンナが不妊だったことを覚えておられるでしょう。エリが彼女が子を産むと預言します。サムエルが生まれ、ハンナは彼を神殿に連れて来て、彼を主に献げます。ハンナが言う驚くような素晴らしい事がらの一部が、1サムエル2:10にあります。これはイスラエルに王がいなかった何十年も前の出来事であることを思い出してください(サムエルが年をとってから、人々は王が欲しいと彼に迫ったのです)。「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果までさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます」2 とハンナは言います。
モーセと来るべき王位
さかのぼって申命記17:14―20では、モーセが、もし人々が王を持つことになったとして、王位についての命令を与えます。そして申命記28:36で、もし人々が主に反抗した場合の、彼らと王の捕囚を預言します。ですから1サムエル12章で起こったことは、神にとって驚きではなかった、と私は結論づけます。主はこの壮大な罪が起こることを知っておられ、主がそれが起こることをお許しになるということを知っておられました。そして神がある事が起こることをお許しになろうと意図されるとき、主はそれを愚かにではなく、賢く成されます。それゆえ、この壮大な罪は、ご自身の御子の栄光のための、神の最も重要なご計画なのです。
どのようにして王位がやって来たのか
主がどうしてこのようにして成されるのかを深く考える前に、王位がどのようにして起こったのかを見てみましょう。王が欲しいという要求は1サムエル記の、さかのぼって8章から始まりましたが、私たちはそれを12章に拾います。8節です。主は「あなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。」9節、「ところが彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。」10節、「彼ら[イスラエルの民]が、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます』と言って主に叫び求めたとき、」11節、「主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。」
人々は神の王位を拒否した
これらの節のポイントは、神は彼らの王として誠実であられたことを示すことです。彼らが主に叫び求めたとき、主は彼らを救われました。主は彼らに安全をお与えになったのです。人々に平安を与えるために王は存在するのです。そして彼らの応答はどうだったでしょうか?12節、「あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王がわたしたちを治めなければならない』と私[サムエル]に言った。」
サムエルの声に、信じられないという彼の声が聞こえて来ます。「あなたがたは神が王であるのに、王が欲しいと言っている!」サムエルは何をしなければならないでしょうか?主は1サムエル8:7―9ですでに彼にこう言っておられます、「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。・・・今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
壮大な罪ー「犯した悪の大きかったこと」
ですからサムエルは1サムエル12:13前半で、「見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。」と言います。そして彼らの犯した罪が大きな悪であることを示すため、雷と雨を下されるよう、彼は主に呼び求めます。17節、「今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」
この聖くない悪を通した神の聖いみわざを私たちが見逃さないように、パウロは使徒13:20―22で、イスラエルに最初の王をお与えになったのは神であるということを、明確にします。「[神は]預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。それから彼らが王を欲しがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされました。」私たちはこれを歴史の壮大な罪の中で繰り返し見てきました。人が計った悪を、神は良いことの計らいとなさったのです。
ここから私たちは何を学ぶべきか?
ですから質問は、もし神がこの壮大な罪が起こるのをあらかじめ見ておられ、そしてそれをお許しになり、それゆえイスラエルの王位が王の王であられるキリストに栄光が返されることをご計画の一部とされたのであるなら、なぜ最初から王位をイスラエルの支配の一部とされなかったのでしょうか?なぜモーセを最初の王とされなかったのでしょう?ヨシュアやその他の者たちは?なぜ神はご自身が王であることから始められ、イスラエルの後々の歴史に壮大な罪を通して人間の王位を立てられたのでしょうか?私たちはこれから何を学ぶべきでしょうか?
少なくとも6つの学ぶべき事がらがあります。
1) 私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちである
ここから私たちは、自分がいかに頑なで、反抗的で、感謝しないものであるかを学ぶべきです。そのため1サムエル12章は、神がどのようにして民をエジプトから救い出され、約束の地をお与えになり、彼らを悪しき王たちから助け出されたのかを、人々の思い出させるような方法で始めます。そしてその都度、彼らは神を忘れ、他のものを慕うのです。これはイスラエルに限った話ではありません。人間の話しです。私の、そしてあなたの人生の話しです。クリスチャンでさえ、絶えず神を慕っているわけではありません。感謝にあふれる日もあれば、全く感謝しない日もあります。しかもその感謝にあふれる日でさえ、感謝にあふれるべきほど感謝にあふれていません。私たちの心が神ご自身と主の何万という賜物に、主がお受けになるのにふさわしい称賛と感謝の思いで呼応しているなら、私たちがどれだけ喜びと感謝に満ち溢れていることか、考えて見てください。ですから神はこのような話の中に、自分自身の像を私たちにお見せになります。主はご自身の民がこのような感謝のない、偶像礼拝的な季節に陥るのをお許しになります。そうすればすべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するからです(ローマ3:19)。
2. 神はご自身のみ名に誠実であられる
私たちはここから、神がいかにご自身のみ名に対し誠実であられるかを学ぶべきです。22節を見てください。「主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」神の誠実さの最も深い礎とは何でしょうか?それはご自身のみ名に対する忠誠心です。ご自身の栄光に対するねたみと熱心です。同じ節をゆっくり、じっくりと考えながら読んでください。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」「彼らの偉大な名のために」とは言わず、主の偉大なみ名のために、と言っています。神はご自身のみ名の価値、真実さと義を維持することに、全力で取り組まれます。それゆえこのような話は、神の成されることはすべて、神のみ名の無限の価値に導かれた、無限の知恵によって支配されていることを私たちに教えるため、聖書にあるのです。
3) 罪人に対する恵みは、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る
私たちはここから、罪の真中にあって、ご自身のみ名に対する神の究極の忠誠から溢れ出る私たちのような罪人に対する恵みが、いかに驚くべきものであるかを学ぶべきです。これについて、19―22節にの驚くような例を見てください。19節で、人々は自分たちが神に対して犯した壮大な罪に、恐れおののきます。「あなたのしもべのために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです」と彼らは言います。この後に続く言葉は、罪人に対する福音の無償の恵みの絵です。サムエルは人々に、「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った」と言います(20節)。
そこで読むのをちょっとやめて、驚嘆してください。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。」これは印刷の間違いではないでしょうか?「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った。」と言うべきではないでしょうか?しかし、「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った」と言っています。これは純粋な福音です。神の恵みは、私たちが受けるにふさわしくないような方法で私たちを取り扱います。「恐れなさい。あなたがたはこのすべての悪を行った」というのが私たちの受けるべき形です。しかし福音は私たちが受けるに値する以上の方法で私たちを取り扱います。「恐れてはならない。あなたがたはこのすべての悪を行った。」
どうしてこんなことがありえましょう?この恵みの基盤は一体何でしょうか?私たちではありません!私たちは罪しか犯して来ていません。では一体何でしょう?それはすでに見ています。22節、恐れてはならない、「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」ご自身のみ名に対する神の忠誠が、あなたに対する主の誠実さの基盤です。もし神がご自身に対する究極の忠誠を捨てられることがあったとしたら、私たちのための恵みはありません。もし主がご自身の私たちに対する慈愛の基盤を私たちの価値に据えられたなら、私たちに対する慈愛はありません。私たちは頑なで、反抗的で、感謝しない者たちだからです。無償の、値しない恵みが、私たちの唯一の希望です。そしてその恵みの基盤は私たちの名の価値にあるのではなく、神のみ名の無限の価値にあります。2テモテ2:13を思い出してください。「私たちは真実でなくても、彼は[主は]常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」神はこの壮大な罪から私たちが、私たちの救いの恵みは、主にとっての私たちの価値にではなく、ご自身のみ価値に最終的基盤があるということを学ぶよう、意図されています。
4) 王位は神だけのもの
イスラエルに王位をもたらされた神の方法から私たちが学ぶべきことは、王位は主だけのものであると言うことです。神は、神だけがイスラエルの王であるべきお方であることをはっきりさせるために、ご自身のイスラエルとの関係を、人間の王無しに開始されました。神だけが王であられます。イスラエルが王が欲しいとねだったとき、彼らはこの真理を拒否していたのです。神は1サムエル8:7で、「彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と、それをはっきりと言っておられます。もし神がイスラエルの歴史を、モーセとヨシュアを初代の王にして始められたのであったなら、神だけがイスラエルの王となることができるということが明確でなかったはずです。主には人間のライバルがいません。
5) 神であられ人であられる方が王であるべき
それゆえ、人間の王を任命される神の方法から、神だけがイスラエルの王となることができるので、人であられるだけでなく神でもあられる王が来るまで、すべて失敗だらけの人間の王家を任命することが、主の目的であることを、私たちは学ぶべきです。イスラエルに人間の王をお与えになることで、神は神だけがイスラエルの正当な王であられるという考えを、変えられたわけではありません。ポイントは、神お一人だけがイスラエルの王であられ、他の者たちのように失敗しない、ダビデの子である王が来る、と言うことです。そのお方は他の罪深い人のようではありません。神であられ、人であられるお方です。
パリサイ人たちを黙らせてしまうイエス様の口から出た最後の質問は、詩篇110:1でダビデが言う、「主[ヤーウェの神]は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」の箇所をもとにしています。イエス様はこれを引用され、主の敵に、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」と質問なさいます。言い換えると、聞く耳のあるものにとって、イエス様はダビデの子以上のお方です。主はただの人間の王以上のお方です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:1、14)神だけがイスラエルの最終的に正当な王になることができるお方です。そのようにしてそれは始まりました。そのようにしてそれは終わるのです。イエス・キリストこそ、神であられ人であられるイスラエルの王です。
6) ご自分の民のために死なれた王
最後に、人間の王をイスラエルに立てられた神の方法から私たちが学ぶべきことは、人間の王が必要であった、と言うことです。神だけがイスラエルの正当な王になることがおできになる方です。しかし人間の王が必要でした。なぜでしょうか?それは神が支配し、愛するための人々を持つためには、その人々が自分の罪のために地獄にいるのではなく、人々のために王が死ななければなりませんでした。神は死ぬことができません。人は死ぬことができます。それゆえ神は神だけがイスラエルの正当な王になるということだけでなく、そのイスラエルの正当な王が人々の代わりに死ななければならない、ということをご計画になったのです。ですからイスラエルの王は神であられ人であられるお方です。そうすれば王が神のままであることができ、それと同時に死ぬことができる、神であり人である王でいることがおできになるからです。
サムエルが「恐れてはならない、反抗的で、かたくなで、感謝しない罪人らよ。あなたがたは、このすべての悪を行った」(1サムエル12:20)と言うとき、この恵みの基盤は一体何でしょうか?それは神のみ名の価値です。「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去られない。」(22節)神のみ名の維持と証明が、この恵みの基盤です。そしてその証明が最も顕著にまた最終的に示されているのはどこでしょうか?答えは、キリストの十字架です。ローマ3:25、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
十字架において、ご自分のみ名のために
本当に主は見のがして来られたのです。まさにその日、王を求めたため滅ぼされるべきだった人々を、神はご自身のみ名のために、彼らをお赦しになり、その罪を見のがされたのです。しかし臭いものに蓋をしてもなお、義でありまた聖い神としてのみ名を維持することはできません。罪は取り扱わなければなりません。処罰されなければならないのです。そしてイエス様が死なれたとき、それは処罰されました。
私たちのような罪深い者が、イエス様のような偉大で、力強く、良い、聖い、そして知恵ある王を、罪のゆえに破壊されずに持つことができる唯一の理由は、その王がご自分の臣民のために死んでよみがえられるよう、神がご計画になったからです。福音書のすべてで、イエス様が死なれる間際に「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねられています。そして主は、「そのとおりです」(マタイ27:11、マルコ15:2、ルカ23:3、ヨハネ18:33)とお答えになります。
すべての者の来るべき王
そして主はユダヤ人の王であられるだけでなく、すべての者、特に主を信じる者たちの王であられます。その敵を足元に置かれるまで、また地上の諸国民の中から選ばれた者たちが集められるまで、主は今日み父の右の座に着いておられます。それから終わりがやって来るのです。そしてキリストは「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28)。「その着物にも、ももにも、」ユダヤ人の王ではなく、「『王の王、主の主』という名が書かれていた」(黙示19:16)。アーメン。来りませ、王なるイエス様よ。
1 新共同訳聖書、1987年版引用。新改訳では、「(主のみこころを)大いにそこなったこと」と訳されており、新共同訳(あるいは口語訳)聖書の方がESV訳に近い。
2 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。