神の主権に対する情熱 パート1
(以下は録音メッセージから書き起こしたものです)
パッション'97に来る理由
理由その1
なぜ私がここにいるのか、その理由を皆さんにお話することから始めたいと思います。一つの地域教会に牧師として16―17年間いることの素晴らしい利点の一つは、教会のビジョンと牧師のビジョンが年月を超えて一つとなることです。1年ほど前に私たちは理念を作成しましたが、それは以下のとおりです。
「私たちは、すべての人の喜びのため、すべてのうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する。」
私はためらわずに、それが私の人生の使命であり、そしてベツレヘム・バプテスト教会の使命でもあると、言うことができると思います。ですから招待状をいただいてこの集会について[の説明を]読み、「情熱」という言葉を見て、そしてイザヤ26:8、「私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います」というみこととばがその背後にあるという事実を知り、私はとりこになりました。
私は、皆さんのすべてとこの世界の人々すべての喜びのために、すべてのもののうちにある神の主権を伝えたいです。ですからそれが私がここにいる、第一の理由です。
理由その2
理由その2は、私はあなたの喜びに火をつける、小さなマッチとなりたいからです。皆さんに、神にあってワクワクで、幸せで、この場から立ち去って欲しいのです。
理由その3
そして三つ目の理由は、皆さんに理由その1と理由その2は共に同じ理由であるということを、聖書に見て欲しいからです。その二つは一つです。すなわち、神の主権に対する情熱を広めることと、神にあって幸せであることは、事実上全く同じです。なぜなら神は、あなたが主のうちに最も満足するときに、最もたたえられるからです。
神は、あなたが主のうちに最も満足するときに、最もたたえられるーこれが私が何度も何度も帰ってくる一文です。ですから先ほど私たちが歌った賛美や表現した飢え渇きは、神に栄光をお返しする方法です。なぜなら主のうちに満足感を見出せば見出すほど、私たちは主からより深く飲みまた宴席であられる主を食し、主のみ価値とすべてを満たされるそのご性質が、よりたからかにたたえられるからです。ですからそこには競い合いはありません。そしてこれこそ、神が私の人生にみわざを成しておられた1968年、69年、70年に私が発見した驚くべきことであり、私にとっての福音です。神の、栄光を受けたいと思われるその情熱と、あなたの満足したいという情熱は競合しません。なぜならそれらは一つだからです。
私がここにいる三つ目の理由を別の方法で言うと、氷河に火をつけるため、私はここにいます。私には一つの絵が念頭にあります。それはマタイ24章から描かれたものです。マタイ24:12で、イエス様は終わりの時代を見られて、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と言われます。私は冷たくなることが死ぬほど恐ろしいです。神に対する自分の愛や、人々に対する自分の愛が、いつの日か乾ききって凍ってしまうかも知れないと考えるのも嫌です。けれどもイエス様は「それがやって来るよ!」とおっしゃいます。世界をまたぐ氷河のようにやってきます。ですからこの終わりの日に対する私の予測は、不法がはびこり、多くの人の愛が冷たくなるということです。それは終わりの日のとても暗い描写かも知れません。
でもマタイ24章を続けて読んでいくと、下って13節、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と言います。ですので誰かは耐え忍ぶのです。そしてその次の節で、「この御国の福音」、言い換えると、「この王なるイエス様の主権に対する情熱を広める福音」は、「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と言います。ここで、12節と14節を並べて、そこにある緊張が感じられるかどうか、見てください。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」が、キリストの主権の支配の「この御国の福音」は、「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
ここで、その二つの間には緊張感があります。どうしてそれがあると私が分かるのかと言うと、それは皆さんの大学キャンパスに福音を持ち帰るのは、冷たい人々ではないからです。福音を世界の未踏の人々に持っていくのは、冷たい人々ではないからです。どうやって私にはそれが分かるのでしょうか?なぜならもし数節逆戻りするなら、9節で、全く違う預言的言葉の中にあなたは何かを見出すからです。「人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」とイエス様は言われます。もしそれが本当であるなら、私たちが宣教の働きで警察当局に訴えられるのであれば、私たちが行くところすべての国で人々に憎まれるのであるならば、メッセージを運ぶのは冷たい人々ではないということは、確実だと言うことを私は知っています。王なるイエス様の熱烈な礼拝者がそれを遂行するのです。それゆえ、マタイ24章の9―14節で私が見るのは、終わりの日が近づくにつれ、さらに氷のように冷たくなる人々と、世界のすべての人々のうちでイエス様のために命を投げ出すほど熱烈な人々が出てくる、と言うことです。
ですからベツレヘム・バプテスト教会における私の奉仕と、ここに到着した私の奉仕は、氷河に火をつけることです。私はこのイメージを私の教会で一度話したことがあります。私の教会では、子供たちに私の説教から絵を描くよう奨励していますが、6、7歳の少女が礼拝の後私のところにやって来て、「これが私の見たものです」と言いました。彼女はミネアポリスがのっている、驚くような氷河を描いていました。その上にはたいまつを掲げた棒状の小さい人がおり、氷河に穴が開いていたのです。その穴を通してまばゆい太陽の光が照っていました。
さて、以下は私の一言で言う終末論です。イエス様が来臨されたとき、あなたの大学のキャンパスはどんな風になるだろうと思ったことがおありでしたら、あるいはオースティンやミネアポリス、自分の出身地がどのようになるだろうと思ったことがおありでしたら、氷河は動き続けており、多くの人々の神に対する愛が冷たくなり、乾いて、凍っています。しかし聖書には「ベツレヘム・バプテスト教会」や「ミネアポリス」や、「在オースティンのテキサス大学は氷河の下にならなければならない」と言う、終わりについての記述は一切ありません。一切です。もしたいまつがともっている、神に熱烈な人々がある程度いて、氷山に火をつければ、あなたのキャンパス、あなたの地域教会、あなたの町に大きな穴を開けることができます。そしてそれが私がここにいる理由です。わたしのたいまつに火をともしたいのです。
スポルジョンは100年ほど前に、イギリスのメトロポリタン幕屋教会で説教していたとき、「人々は私が燃えるのを見るためにやって来る」、と良く言いました。彼らはちらちらちらついているたいまつを受け取るためにやって来て、私のたいまつにその先端を突っ込み、出て行ってもう一週間、イエス様のために火を灯すのです。皆さんが今朝ここにちらちらちらついているたいまつを持ってきておられ、それを私の火に突っ込んで下さったなら、とても嬉しく思います。そのために私はここにいます。
このメッセージの目的は、土台を築くこと
私がやりたいことには土台があります。ここでの私の任務は神の栄光のために生きるということと、神の栄光に対する情熱を持つということを語ることです。今朝と明日の朝の二回メッセージをします。今朝は土台で、明日は適用です。
土台はこれです。神のすべてのもののうちにある主権に対するあなたの情熱は、言う間でもなく、すべてのもののうちにあるご自身の主権に対する神の情熱に基づいています。あなたの神中心さ(もしそれが持ちこたえるとすれば)は、神の神中心さに根付いていなければなりません。もし自分の生涯において神が最上位であって欲しいとあなたが思うのなら、あなたは神が神のご生涯で最高位であられるという真理を見て、信じて、愛さなければなりません。もし先ほど歌ったように、神があなたの宝となって欲しいと、そうすればあなたが神を他の何よりも大切にするからと、あなたが思うのなら、神の宝は神ご自身であり、神は他の何よりも神ご自身を大切にされるということを、あなたは見て、信じなければなりません。この全世界の最高の楽しみ、すなわち神を礼拝することを、神から取り上げることは、私たちはしないでしょう。それが土台です。それが今日私が話したいことです。
それから明日は、神のうちにある喜びを追い求めること、そしてこの追求は、あなたの人生におけるご自身の栄光を求められる神の追求を必然的に意味する、ということについて話したいと思います。
神はご自身の栄光に対し熱烈であられる
まず短い話で始めさせてください。8、9年前に私の母校であるウィートン大学で講演しました。それはこの大きくてシャンデリアのある、青い、美しいチャペルでの初めての機会でした。立ち上がって、「神の最も重要な目的は、神の栄光をあらわし、主を永遠に喜ぶことです」と言いました。バルコニー席に座っていた私の友人たちすべてが、「ああ、何てことだ。卒業後20年後に自分の母校で学生たちに語る初めての機会に、彼はウェストミンスター大教理問答を早速間違って引用しているよ。『人間の最も重要な目的』という代わりに、『神の最も重要な目的』って言っちゃってるよ」と思いました。そして彼らを安堵させるために、「私はそう思います」と続けて言ったのです。今朝私は、神の最も重要な目的は、神の栄光をあらわし、主を永遠に喜ぶことだと、そう思います。
私は伝道者の家庭で育ちました。私の父であるビル・パイパーは、私が幼い時から1コリント10:31、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」というみことばを教えてくれました。でも神は神のご栄光のためにすべてのことをなされると言うのを誰からも聞いたことがありませんでした。私が神のご栄光のために生きることの根底は、神が神ご自身のご栄光のために存在しておられることにあります。
子供たちが家に持ち帰ってくる日曜学校の文書に、「神はあなたを愛する以上にご自身を愛しておられ、それこそが、価値のないあなたを主が愛してくださるという、唯一の希望なのです」と書いてあるのを、私は見たことがありません。どの日曜学校の文書でも見たことがないので、私たちはベツレヘム・バプテスト教会で、現在カリキュラムを作成しています。私たちのほとんどが、神中心であられる神にワクワクする程度ではなく、神が私たちにワクワクしていると思う程度で、クリスチャンであることに興奮する家庭や教会で育ちました。
自尊心が最高の価値である人間中心の世界で、神なしで取り敢えず自分ができたであろうことを強化する程度のクリスチャンであることは、とても簡単です。誰がクリスチャンになりたがらないでしょう?もしあなたが、神中心の神の美しさを突きつけられないで、今まで愛してきたものだけを愛するのなら、あなたはクリスチャンではありません。もしあなたの見る神が、ご自身の栄光の現れであふれる、無限に栄光あるお方ではなく、あなたの自己向上と自己高揚の方法であるならば、あなたは自分の改心を吟味する必要があります。ですからここオースティンでのパッション'97は、現実を把握させるものです。ごく少数の人が、神は私をご自身のご栄光のためにお選びになったと、私が聖書に見るようになったものを、教えてくれ、あるいは見せてくれました。
1976年にエペソ人への手紙1章を、その当時のベテル大学の「インタリム(中間)」と呼ばれるクラスで教えたのですが、エペソ書の最初の14節を一節一節組織的に進みながら、私の世界が再びバッと開けたのを覚えています。それは6節、12節、14節で三度、主は私たちを世界の基が置かれる前から主にあって選ばれたのですが、それは主の恵みの栄光がほめたたえられるためであると言うからです。
主はあなたをお選びになりました。なぜでしょうか?それは主の栄光と恵みがたたえられ、掲げられるためです。あなたの救いは、神の栄光をあらわすためです。あなたの選びは、神の栄光をあらわすためです。あなたの再生は、神の栄光をあらわすためでした。あなたの義認は、神の栄光のためでした。あなたの聖化は神の栄光のためです。そしていつの日か、あなたの栄化は神の栄光へと吸い込まれて行きます。
あなたは神の栄光のために造られた
イザヤ43:6、(7)「わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。私の名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」
神はご自分の栄光のためにご自身の民イスラエルをエジプトから救出された
「私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で逆らった。しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。」詩篇106:7、8
言い換えると、主はご自身の偉大な力を知らせるため、葦の海(紅海)を真っ二つに分けられ、ご自身の不従順な民をお救いになったのです。そしてそれははるか遠くのエリコまで知れわたり、イスラエル人がエリコに到着し、ラッパを鳴らす準備が整ったとき、「あなたがたの名と名声を聞いています」と言ったために、生まれ変わったその売春婦を救ったのです。一人の女性とその家族が、神中心の神を信じ、破壊から逃れました。
神はご自身の栄光のために、荒野でイスラエルに憐れみをお示しになった
神はイスラエルを荒野で繰り返しお赦しになりました。「イスラエルの家は荒野でわたしに逆らった」とエゼキエルは神のみことばを引用して言います。「わたしは怒りを注ぎ出そうと思ったが、わたしの名が諸国の民の間で汚されないよう、わたしの名のためにわざを行った。」そしてその後最終的に、神は彼らをバビロンでの裁きへと送られ、75年後の主の憐れみによって彼らは暖められます。主はご自身の契約の花嫁と離婚なさらず、彼らを連れ戻されます。なぜでしょうか? 神のみこころに根ざしているその動機は、一体何でしょうか?
イザヤ48章[9―11]に耳を傾けてください。「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合と違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」それは憐れみを示される神の、神中心の動機です。
イエス様は神の栄光のために来られ、死なれた
イエス様がこの世に来られたのはなぜでしょうか?ああ、私たちは何度、ヨハネ3:16を引用して来たでしょうか?それは素晴らしい真実です。そして今朝のこの会を終える前に、あるいは少なくとも明日の朝までには、この今強調されていることと、皆さんが恐らく長い間親しんで来たその強調は、食い違っていないことを見るでしょう。
でもなぜ主は来られたのでしょうか?なぜイエス様は来られたのでしょうか?ローマ15:8によると、主はこのために来られましたー「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」キリストは地上に来られ、肉体をとられ、死なれました。そうすればあなたが憐れみのゆえに、神をあがめるようになるからです。主のみ父の栄光のため、それが主が来臨された主な理由です。そして主の栄光は、憐れみの満ちあふれるところでその頂点に達します。
ローマ書3章[25、26]のこの言葉を聞いてください。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。・・・それは、今の時にご自身の義を現すためであり、」。主はそのために死なれました。主はダビデの姦淫や殺人のような罪を見逃して来られた神の義を立証するために、死なれたのです。神が[ダビデの罪を]見逃され、ダビデは王のままでいたということを、疑問に思ったことがありますか?パウロは、罪を見逃されるなんて神は義なるお方ではないではないかと、それに心底悩みました。そしてそれはダビデだけではありません。主がその罪を単純にお忘れになり、見逃される、旧約時代と今日においても、数多くの聖人がいるのです。パウロは「神であられながら、どうしてそれが出来るんだ?義なるお方でありながら、どうしてそれが出来るんだ?正しくあられながら、どうしてそれが出来るんだ?礼拝を受けるにふさわしいお方でありながら、どうしてそれが出来るんだ?」と叫びます。もし判事が幼児虐待者や強姦者や殺人犯を無罪としたら、もしオースティンの判事がそのようなことをしたら、一瞬のうちに退場させられます。「そして神はそれを毎日成されるのですから、一体どんな神なのでしょう?」
十字架が、巨大な神学的問題、すなわち、神が罪をお赦しになりながら、どうやって神であることができるのかという問題の、解決です。キリストは、あなたのような人々を救われる神の正しさを立証するために、来られました。救いは壮大にまた素晴らしく、神中心なものです。
イエス様は栄光をお受けになるため戻って来られる
なぜ主は戻って来られるのでしょうか?皆さん、イエス様は戻って来られます。戻って来られるのです。なぜ主が戻って来られるのか、また主の再臨に際して、あなたにいつでも準備ができているよう、何が出来るのかをお話させてください。
2テサロニケ1:8―10、「(そのとき主は、)私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・・感嘆の的となられます。」ここから二つの事がらが見えますか?主はご自分の聖徒たちから栄光をお受けになり、あがめられ、感嘆の的となられるために、来られるのです。もしあなたが今それを始めないなら、主が来られたときにそれをすることができません。
この集会は、王なるイエス様に謁見するためにあなたを準備させるため、またあなたの骨に火を灯し、あなたの頭と心に点火するために存在します。そうすれば主があなたを造られたその目的、すなわち、主に感嘆し、主をあがめるということを、永遠から永遠まで続けることができるからです。
私たちは望遠鏡のように神を拡大しなければならない
主を拡大するのですが、顕微鏡のように拡大してはいけません。この二つの拡大の違いがお分かりになりますよね?望遠鏡で拡大するのと、顕微鏡で拡大する方法がありますが、神を顕微鏡で拡大するかのように拡大するのは、冒とくです。顕微鏡のようにして神を拡大するというのは、小さいものをそれよりも大きく見せることです。もしあなたがそのようにしようとするのであれば、それは神を冒とくしています。でも望遠鏡は、想像もできないような巨大なものの偉大さをレンズに置き、それそのものを見せるようにします。望遠鏡はそのためにあります。
「キラキラ光るお空の星よ」ー夜に空を見上げたら、それらの星は点にしか見えません。でもそれが星なわけではありません。皆さんは大学生ですので、知っておられますよね?それらは大きいです。とてもとても大きくて、熱いのです!昔誰かが望遠鏡を発明して、それを目に当てて、「これは地球よりも大きい、地球よりも何百万倍も大きい」と思ったこと以外、あなたにはまったく分かりません。神はそのようなものです。あなたの人生は、神の栄光を望遠鏡であなたのキャンパスに拡大するためにあるのです。それはとても大きな召命です。どのようにそれをするのか、明日話したいと思います。
もし神が神中心であられるなら、どのようにして愛なるお方でいることが出来るのか?
これがこのメッセージを閉じたい鍵となる質問です。なぜならそこから膨れ上がり始めるからです。神は神中心の神であられ、そして主の神中心さは私の神中心さの根底だという真理を、私は述べました。それを20年間人々に言い続けてきたのですが、疑問が沸き起こって来ます。「それは愛のあるお方のように聞こえない。なぜなら聖書は、1コリント13:5で、『愛は自分の利益を求めない』と言っている。先生はこの15分間、神はご自身の利益を求めることにその時間すべてを費やしておられると言っている。だから神が愛のないお方であるか、先生が嘘つきか、そのどちらかだ。」それは大問題です。ですから神がご自身があがめられることを求められることにおいて、愛あるお方であるということがどのようなことであるのか、答えさせてください。
C.S. ルイスの助け
私はC.S. ルイスにその鍵を見出しました。もし『デザイアリング・ゴッド[神を慕い求める]』を読んだことがおありの方がおられましたら、この引用を覚えておられると思います。ルイスは20代後半まで偶像礼拝者で、神のうぬぼれを嫌っていました。詩篇の、「主をほめよ、主をほめよ」という言葉を読むたびに、彼は詩篇が影響を受けているキリスト教の教理を知っており、そしてそれは神が「わたしをほめよ、わたしをほめよ」と言っておられるのを分かっていて、それはあたかも年配の女性が褒め言葉を求めているように聞こえたのです。それは『詩篇を考える』からの引用です。そしてその後突然、C.S.ルイスの人生に神がご介入になります。以下彼が書いていることです。
「賛美についての最も明らかな事実―それが神のものであろうが何のものであろうが―が奇妙にも思いつかないのだ。ほめ言葉、賛辞、あるいは敬意を払うことの観点からそれを考えて見た。恥ずかしさや、人を退屈させてしまうのではないかという恐怖が意図的に持ち込まれない限り(時にはそれが持ち込まれたとしても)、楽しみのすべては無意識のうちに賛美へとあふれ出すことに、私は気づいたことがなかった。この世には賛美が響き渡っている。恋人たちはお互いをたたえ合い、読者は好きな詩人をたたえ、散策を好む者たちは田園風景をたたえ、スポーツを好む者たちは好きな競技をたたえる。天気、酒、食器、俳優、馬、大学、国、歴史上の人物、子供、花、山、珍しい切手、珍しいカブトムシ、時には政治家や学者だって、たたえるのだ。神をほめたたえることについて理解に苦しんだため、[賛美と言うのは]最も価値あるお方以外で最も大切にするものを、私たちが喜んですること、事実しないではいられないことであるということを、私は愚かなほどに認められなかった。」
さらに、以下が鍵となる文章です。
「私たちは楽しむものを喜んでたたえると思う。なぜなら称賛はその楽しみを表現するだけでなく、楽しみを達成するからだ。それがその楽しみの定められた到達点なのである。お世辞で恋人はその愛する人に彼女がいかに美しいかを言い続けるのではない。嬉しさは言葉で伝えられて初めて完成する。」
それが私にとって、神がその成されることすべてにおいて自画自賛されながら、いかにして愛あるお方であることができるのか、ということを明らかにする鍵でした。それはこのようになります。皆さんのために、パズルのピースを合わせてみましょう。
疑問に対する答え
もし神があなたを愛しておられるなら、主はあなたに何をあげなければならないでしょうか?主はあなたにとって最高のものをあなたにあげなければなりません。この全世界で最高のものとは、神です。もし神が完全な健康と、最高の仕事、最高の伴侶、最高のパソコン、最高の休暇、あらゆる業界における最高の成功をあなたに与えておいて、もしご自身をお与えにならなかったら、神はあなたを憎んでおられるということになります。もし主が他の何ものも与えずご自身をあなたにお与えになるなら、主はあなたを無限に愛しておられます。
もし神が私を愛し続けてくださるなら、私は神を自分の楽しみとして持たなければなりません。ルイスはもし神が、あなたが永遠に主を楽しむためご自身をお与えになるのなら、その喜びはあなたが賛美で表現しない限り、完成しないと言っています。それゆえ、神があなたを十分に愛するためには、あなたが賛美を通して自分の喜びを完成させるために喜ぶかどうかに、無関心ではいられません。それゆえあなたが主によって愛されるためには、神はあなたの賛美を求めなければならないのです。お分かりになりますか? 皆さんにそれを復唱してもらった方がいいでしょうか。それが私の人生の核心です。それが聖書の核心でもあると私は信じます。
あなたを愛するために、主はあなたにとって最高のものを与えなければなりません。神があなたにとって最高のものです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11) 神は私たちの楽しみのために、ご自身を私たちにお与えくださいます。でもルイスは、その楽しみが神への賛美で表現されない限り、その楽しみが制限されてしまうということを見せてくれています。それゆえ神は、あなたの楽しみをまったく制限したくないがため、「わたしをほめよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしをほめよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしをたたえよ。あなたのするすべてのことにおいて、わたしの主権に対する情熱を持ちなさい」と言われます。それは、神のご自身の栄光を現そうという情熱と、あなたの喜びたい、満足したい、という情熱は、食い違っていない、ということを単純に意味します。それは一致します。あなたが主のうちに最も満足しているときに、神の栄光が最もあらわされます。
さて、それが今朝のメッセージの終わりです。明日は私たちはどこへ行くのかを説明させてください。そうすれば皆さんがそれに向けて祈り、願わくば、このメッセージを私に終わらさせてくれるからです。私はまだメッセージを終えていません。もし、あなたが主のうちに、最も満足しているときに、神の栄光が最もあらわされると言うことが本当であるなら、それゆえあなたが主のうちに満足することと、主のあなたのうちでの栄光化の間には、緊張や矛盾がまったく無いというのが本当であるなら、あなたの人生の使命は、自分自身の楽しみを追求することです。私はこれを、クリスチャン快楽主義と呼びます。どのようにしてそれを追求すればよいのか、そしてそれがなぜあなたの人間関係、あなたのキャンパス、あなたの礼拝、あなたの永遠を変えるのかを、明日話したいと思います。