ご自身の御子をさえ惜しまれなかった神
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 1
真理の中には私たちを唖然とさせるようなものがあります。ローマ8:28―30はパウロを唖然とさせました。神はあなたのためにすべてのことを働かせて益としてくださいます。神がそれを取り計らってくださいます。それは、主がキリストとご自身のご栄光のために、あなたをあらかじめ知っておられ、あなたをお選びになっておられ、あなたが罪過のうちに死んでいたときにあなたを召され、ご自身の恵みにより、信仰のみを通してあなたを惜しみなく義と認められ、キリストのよみがえりの栄光のからだのようなからだにあなたが達する主の来臨の日まで、現在、あなたを栄光へと少しずつ変えてくださっているのです。
これにはパウロはほとんど言葉が出ません。ほとんどです。彼は「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言います。パウロと私たちを代弁して、二つのことがそれらの言葉から聞こえてきます。まず、「それらの素晴らしい事がらに言葉が見つかりません」と言うのが聞こえてきます。そして、「では、これらのことから何が言えるでしょう」と言うのも聞こえてきます。パウロが「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言うとき、「別の方法で言わなければなりません」と言うのが彼の答えだと私は思います。違った言葉を探し出して言い直さなければなりません。それを彼は、「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という言葉にします。それを彼は最初からずっと言い続けて来ているのです。しかし彼は別の方法で言わなければなりません。
そして私たちも同じです。もしあなたが子供や親や友人に栄光の福音を何度も語ったことがあるのなら、もう一度、別の方法で言わなければなりません。別のメールをもう一つ書き、別の手紙を書き、別の講義を教え、別の額を(壁に)飾り、別の詩を作り、別の歌を歌い、キリストの栄光についての別の文章を死にゆくお父さんに病床で語るのです。「では、これらのことからどう言えるでしょう?」私たちは別の方法で、死ぬまで、そして永遠に、何度も何度もそれを言います。その栄光を語る方法が尽きることはありません。
神は私たちの味方であられる
パウロは31節で今度はどのようにそれを言うでしょうか?「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言います。彼のポイントは、前述のものをまとめることです。「神が私たちの味方であられるので、だれも私たちに敵対できません」。神は愛のうちに私たちをあらかじめ知っておられ、私たちを子としてあらかじめお定めになり、私たちを死から召され、私たちを義と認められ、そしてキリストの素晴らしい、喜びの日まで、栄光から栄光へと私たちをつくり変えてくださっているのです。それを私たちは再度どのように言えばいいでしょうか?「神は私たちの味方であられる」と言います。
ああ、「私たちの味方」という言葉は何と尊いでしょう。「神は私たちに敵対しておられる」という言葉ほど恐ろしいものは、この世界にはありません。もし無限に力強い怒りが私たちに向けられているとしたら、全滅は甘い恵みの賜物であるはずです。そのため、地獄ではなく、全滅が、裁きの意味するものであると私たちを説得しようとする人たちは、的から遠く離れています。神のみ怒りの下での全滅は裁きではありません。それは救済であり解放です(黙示6:16参照)。いいえ。人間の全滅はありません。私たちは神が敵対されるか、味方されるかのどちらかで、永遠に生きます。そしてキリストにあるすべての者たちは、ほとんど(!)言葉にできない喜びをもって、「神は私たちの味方であられる」と言うでしょう。主が私たちに味方してくださるのです。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。神は全く私たちの味方であられ、私たちに敵対されることがありません。私たちのいかなる病いも、有罪を宣告する裁判官からの裁きではありません。ダメになった車や故障した家電のどれも、神の罰ではありません。私たちの物質的苦労のどれも、主の怒りの印ではありません。仕事を失うことはどれも、罪の報いではありません。子どもが私たちの言うことを聞かないのはどれも、神のムチ打ちの罰ではありません。もし私たちがキリストのうちにいるのなら、です。いいえ。神は私たちに敵対しておられるのではなく、すべてにおいて、平穏なときも痛みを抱えているときも、すべてを通して、私たちの味方であられます。
だれが私たちに敵対するでしょう?
それは、また別の言い方をすれば、「誰が私たちに反対するのか?」と言うことができます。まだ31節を見ています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」パウロはそれを質問するとき、「誰も私たちに敵対できる者はいない」という答えを予測しています。それに対し私たちは、「本当?」と言いたくなりますが、それはどういう意味でしょうか?35節では患難と苦しみと迫害と剣がやって来る、と言われています。36節ではクリスチャンたちは一日中死に定められ、ほふられる羊とみなされると言われています。パウロがそう言うのです。では「だれが私たちに敵対できるでしょうか」とは、彼はどういう意味で言っているのでしょうか?だれも私たちに敵対し通すことのできる者はいない、という意味で言っているのだと、私は思います。
悪魔と罪深い人はあなたを病気にすることができます。あなたの車を盗み、あなたの結婚に苦い種を蒔き、あなたの仕事を奪い、あなたの子どもを盗み去ることができます。しかし28節で、もしあなたが主を愛するなら、神はそれらすべてのことを働かせて益としてくださると、言います。そしてもしそれが最終的にあなたの益になるとしたら、敵の計画は妨害され、彼のあなたに敵対するというねらいが、キリストを崇め、魂を満足させ、信仰を強め、痛い益へと変えられるのです。神があなたの味方であられるのなら、主はこれらのことをあなたに惜しんで与えられないことはありません。でも敵が悪を計画するところで、主は良いことをご計画なさいます(創世記50:20、45:7)。あなたに敵対する事がらを、主はあなたの味方になるよう計画なさいます。だれもあなたに敵対し通すことのできる者はいません。
これは私たちの人生に、何と大きな影響を及ぼすことでしょうか!もしこれらが本当であるならば、私たちはこの世のもののようであってはなりません。この世の者のほとんどは、病いや窃盗やテロや仕事を失うことや、その他もろもろを恐れるその恐れで、自分の生き方を選びます。しかしイエス様に従う者には、「これらはみな、異邦人が求めているものです。あなたがたは神の国をまず第一に求めなさい」(マタイ6:32―33)と主は言われます。神はあなたが必要なものをお与えくださいます。そして愛と犠牲と苦難のうちにあなたが失うものあるいはあなたに足りないものは、あなた自身のためであり、それは神が設計なさった方法で、何百倍にも増して、御国であなたに返って来ます。
ですからカンカンであろうがギニアであろうがトルコのイスタンブールであろうが、インドネシアのテルナテであろうが、ミネソタのミネアポリスであろうが、自分の敵の前に立ちはだかり、福音を語ってください。そしてあなたの命を奪い取ろうとしている者にでさえ、「あなたがしなければならないことをしなさい。でも最終的にはあなたの言葉のすべてやあなたが私に与える傷で、私の信仰が精錬され、私の報酬が大きくされ、よみがえりのイエス・キリストがおられるパラダイスへと私は送られるだけです」と言うのです。ああ、もし神が私たちの味方であられ、だれも私たちに敵対できないということを信じるなら、私たちはどんなに違う者たちになるでしょう!
御国の揺るがない論理
それでは、私たちはそれに対し何と言えばいいのでしょうか?使徒パウロはそれに何を付け足すでしょうか?彼は別の方法で、同じことを言うでしょう。彼は32節で、敵対し通すことのできるものがいないことが約束されているばかりか、神の完全な、溢れんばかりの、終わりのない寛容さが私たちに約束されている、という風に言います。そしてそれらすべては、罪人のために死なれた主の御子のうちにある、揺るがない岩に基づいています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
私は一度、これを「御国の揺るがない論理」と呼びました。それは偉大なものからそうでないもの、難しいものから簡単なもの、ほとんど乗り越えることのできない障害から、簡単に乗り越えることのできる障害へ、という論理です。主は、大変難しく、私たちの救いを妨げるような、拷問とあざけりと罪を背負う死というものに、ご自分の御子を惜しまずにお渡しになりました。もしそれを成し遂げることができたのであるなら、それより些細なこと、容易なことはもちろん、おできになるはずです。それは、キリストが私たちのために得られたものすべてを私たちにお与えくださることです。すべてのものです!御国の揺るがない論理です。
主ご自身の御子
考えて見てください。まず、「ご自分の御子」というフレーズです。イエス・キリストとは、神が地上で発見され、自分の息子として養子にされたお方ではありません。イエス・キリストは、前から存在しておられた方で、事実永遠に存在され、み父と共存され、造られたお方ではなく、満ち満ちた神のご性質が形をとって宿っている、神のみ姿であられます(コロサイ2:9)。ローマ8:3で、神は「ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしにな」ったというのを思い出してください。言い換えれば、御子は人となられる前にすでに存在しておられたのです。ただの預言者ではありません。御子なる神です。
そして32節で主を「ご自分の」御子と呼ぶとき、ポイントは、御子の他には誰もおらず、御子は神にとって無限に尊いお方であると言うことです。イエス様がこの地上におられたとき、少なくとも2度、神は「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17、17:5)と言われます。コロサイ1:13でパウロは主を、「[神の]愛する御子」と呼びます。イエス様ご自身、地主のたとえから、主人のしもべたちが来て小作人から収穫を回収しに来た時、袋叩きにして殺したというたとえを話されました。そして、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」(マルコ12:6)とイエス様は言われます。ひとり子が、み父が持っておられるすべてです。主は[み父に]深く愛されていました。そしてみ父によって遣わされたのです。
私には4人の息子がいます。父が息子を愛するほどの愛はありません。誤解しないでください。私は妻を愛しています。娘を愛しています。父やこの教会のスタッフである仲間らやあなた方を愛しています。父親が息子を愛する愛はそれらの愛よりまさっていると言っているのではありません。と言うか、それは違う部類のものなのです。他の愛も違います。でも私が言っているのは、父親が息子を愛する愛ほどのものはない、というこの一つだけです。
32節のポイントは、このたった一人の御子に対する神の愛は、主と私たちの救いの間に立ちはだかる巨大なエベレスト山のようなものでした。これはほとんど乗り越えることのできない障害でした。神は、ご自分の御子とのかけがえのない、うっとりするような愛おしい、燃えるような情緒的つながりを乗り越えて、偽られ、裏切られ、見捨てられ、欺かれ、鞭打たれ、殴られ、つばきをかけられ、十字架につけられ、動物が解体されるように剣で刺し通される仕業に、御子を引き渡すことがおできになったでしょうか、あるいはお引き渡しになるでしょうか?主は実際にそれをされるでしょうか?ご自身の愛される御子を引き渡すことがおできになるでしょうか?もし主がそれを成されたのなら、主が達成しようとしておられる目標を止めることはできないはずです。もしご自身の良きことを達成する上でその障害が乗り越えられるのであれば、どのような障害も乗り越えられるはずです。
主はそう成されたでしょうか?パウロの答えは、はい、その通り、です。彼はそれをネガティブに、またポジティブに言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」。言い換えれば、「主はご自身の御子を惜しまれなかった」、困難と障害の莫大さが聞こえて来ます。神はご自分の御子の痛みや屈辱を好まれませんでした。神の御子がこのように扱われるのは、無限にひどいことです。罪はその時最悪の状態に達しました。神を攻撃するという、罪の性質そのものが暴かれたのです。すべての罪、私たちの罪は、神に対する攻撃です。主の権限と真理とその美しさに対する攻撃です。しかし主はご自分の御子がこの扱いを受けることを惜しまれませんでした。
御子を死に渡された
代わりに御子を「死に渡され」ました。これを見逃さないでください。全世界で重要で貴重なもののほとんどすべてがこの史上前代未聞のときに集結するのです。神の人に対する愛と罪に対する憎しみがここに集結します。神の絶対的主権と、人間の責任と道徳的行為の永遠の重みがここに集結します。神の無限の知恵とみ力が、神がご自分の御子を死に引き渡されたとき、ここに集結するのです。
聖書は、ユダが主を引き渡し(マルコ3:19)、またピラトが主を引渡し(マルコ15:15)、ヘロデとユダヤ人と異邦人が主を引渡し(使徒4:27―28)、そして私たちが主を引き渡した(1コリント15:3、ガラテヤ1:4、1ペテロ2:24)と言います。またイエス様がご自身を引き渡されたとさえ言います(ヨハネ10:17、19:30)。しかしパウロはこの32節で根本的なことを言っています。この人間の引渡しのすべてのうちと背後と下とそしてそれを通し、神がご自身の御子を死に引き渡されたのです。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒2:23)。ユダとピラトとヘロデとユダヤ人の群衆と異邦人の兵士らと私たちの罪とそしてイエス様の小羊のような従順のうちに、神がご自身の御子をお引き渡しになったのです。これ以上に素晴らしいことはこれまで起こったことがありません。
これが本当であるなら、それで?
そしてこれに対して私たちは何と言いましょう?「御国の論理が堅く立つ!」と私たちは言います。もし神がご自身の御子をそのように死に引き渡されたのであるならば、それで?答えは、主は私たちに、御子と共にすべてのものを当然そして惜しみなくお与えくださるはずです。もし神がご自分の御子を惜しまずお与えくださったのであれば、私たちにどのような良いものをも惜しまずお与えくださるはずです。これが詩篇84:11の最終的に獲得し達成したものです。「主は・・・正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」これが1コリント3:21―23、「すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」の約束と理由です。これがエペソ1:3、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われる約束のしるしです。これがイエス様が言われる、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31―33)という約束を、確保したものです。
ご自分の御子をさえ惜しまず、私たちのために死に引き渡されたのですから、主は道徳的絶対的確かさをもって、私たちに主とともにすべてのものをお与えくださいます。本当でしょうか?すべてですか?では「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)と言うのはどうでしょう?それに対する答えは、350年前のジョン・フレーベルの素晴らしい引用のうちにあります。
「『己の御子を惜まずして我ら衆のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや』 2 (ローマ8:32)。神がこの後、霊的あるいは一時的なものを、ご自身の民に惜しんでお与えにならないであろうなどと、想像できようか? 主は私たちを効果的に召され、惜しみなく義と認められ、完全に聖化され、永遠に栄化されないであろうか? 私たちに着物を着せられ、食べさせられ、守られ、また救われないであろうか? もし主がご自分の御子から一打ち、涙一つ、うめき一つ、ため息一つ、惨めな状況の一つを惜しまれなかったのであれば、主がこの後、ご自身の民のため主がこれだけ苦しまれたその人々に、彼らにとって良きことである、霊的また一時的な憐れみと、慰めと、特権を否定、あるいは惜しまれるとは、考えられないことである。」
神は私たちに、絶えず良いことをしてくださいます。もし主がご自分の御子をあなたのためにお与えくださったと信じるのなら、これはあなたが信じることです。そしてクリスチャン人生のすべては、単純に、その信仰の実です。神の愛を見てください。その愛に生きてください。そしてますますおののいてください。
1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用
2 文語訳、1917年版引用。