死ぬことは得であるときに宣教する
(以下は音声を編集して書き起こしたものです)
私の人生と私の教会の理念は、以下の通りです。
「私たちは、すべての人の喜びのため、すべてのうちにある神の主権に対する情熱を広めるために存在する。」
私はその理念が大好きなのには、沢山の理由があります。一つはそれが失敗に終わることがないからです。それが約束であるので、失敗に終わることがないと分かります。マタイ24:14、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」 1 (『国民』というのは政治的国家のことを言っているのではないと言うのを皆さんが理解していることを願います。それは民族グループ、言語集団的グループ分けを言います。)証人、自己伝播する理解のできる証人がそこにいる、と言うことが言える程度まで、それらの国民の一人一人に福音が伝えられると言うことを、私たちは100%確信を持つことが出来るでしょう。
さて、なぜ私たちがそれを当てにすることができるのか、いくつかの理由を上げさせて下さい。
約束は確か
約束はいくつかの理由で確かです。
1. イエス様は嘘をつかれない。 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」そして私ではなく、イエス様がマタイ24:14を言われるのです。
ですから私たちが一緒にしているこの宣教には、終わりが来ます。それは完了し、あなたはそれに参加して勝利を共に楽しむか、義務から逃れて人生を無駄にすることができます。あなたにはそのどちらかの選択肢が与えられています。「恐らくそれは起こらないし、それに飛び込んで参加しないことで、私は一番いい側にいることができるんだ」というような中間の選択肢はありません。それは決して起こりません。
2. 全ての国民の中のそれらの人々のための贖いの代価はすでに支払われた。 黙示録5:9-10によると、「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」代価はすで支払われ、神はご自身の御子の支払われたものを再び請求されないのです。
私はモラビア人の話が大好きです。北ドイツで、二人のモラビア人がボートに乗り、西インド諸島に自分たちを身売りし、二度と戻ってこない準備をしていました。ボートが港に流れ出して行く際、彼らは両手を上げ、「小羊が苦しまれたその報いを受けられますように」と言います。彼らは、キリストが彼らをすでに買い取ってくださったと言っているのです。そして彼らは、聖霊が彼らをご自身に召され、差別なく福音を宣べ伝えている自分たちを見出します。
ですから世界中のそれぞれの神の民の負債はすでに支払われているので、これを止めることはできません。イエス様がお呼びになるとおり、世界中に散らされている失われた羊たちは、福音の宣教を通してみ父が彼らを招かれる通り、み父のみもとに来ます。
3. 神の栄光がかかっている。 これに関する聖句は沢山あります。その一つを挙げさせてください。ローマ15:8―9、「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証[あるいは確実に、信頼できるものに]するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」新しく生まれることのそもそもの目的は、主の民に対するあわれみを現すことを通してみ父が栄光をお受けになることです。
大宣教命令は、神の栄光がかかっています。ベツレヘム・バプテスト教会では、1983年、私と私の17年来の親友、トム・ステラーが、不思議な方法で神によって出会いました。真夜中、トムは眠ることが出来なかったので、起き上がってジョン・マイケル・タルボットの歌をかけ、ソファーに横たわり、私たちの神学が宣教に訳されて行くのを聞きました。(私たちはその当時神の栄光を重視した人々でしたが、本来すべき[現在のような]宣教の理解がまだありませんでした。)ジョン・マイケル・タルボットは水が海を覆うように、神の栄光が地を覆うと歌っており、トムは聞きながら何時間も泣きました。それと同時に神は私とノエルのうちに働いておられ、「この場所を宣教の発射台とするには、私たちに何ができるだろう?」と自問していました。そして私たちの教会の人生に電撃的瞬間を起こすため、すべてが同時にやって来たのです。それは神の栄光に対する情熱から溢れ出したものでした。
4. 神は主権者であられる。 神は主権者であられます!数週間前、ヘブル書から一通り説教している際、ヘブル6章にやって来ました。皆さんもご存知のとおり、これは、クリスチャンが[信仰から]離れて行く時、その人は実際はクリスチャンなのかどうかについて考えさせられる、とても難しい聖書箇所です。1―3節にはこの素晴らしいみことばがあります(それは私がカルヴァン派である理由の、大きな聖書的証拠のほんの小さなかけらです)。それは以下のように言っています。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。・・・神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」これを見たとき、信じられないような静けさが会衆のうちにただよいました。それは、私たちがその意味を読み取ったからです。「それは神が信者の群れが成熟を目ざして進もうとするのをお許しにならないかも知れないってこと?」
神は主権者であられます!主は教会の主権者であられ、国民の主権者であられます。これが証拠に、数週間前に発行されたクリスチャニティー・トゥデー 2 で、ジム・エリオットとネート・セイント、ピート・フレミング、ロジャー・ヨウデリアン、そしてエド・マクーリーの話を再び語っています 3 。スティーブ・セイントは彼の父親がエクアドルでアウカ族インディアンに槍で突き刺される話をします。彼は起こるべきでなかったこの殺害の首謀者であるアウカ族の、企ての新しい情報の詳細を聞いたあと、それが起こるはずではなかった、また起こり得ることではなかったことのように思えると言います。しかしそれは起こりました。そしてその企てが分かって、この記事を書きます。
リビング・ルームの椅子から思わず私が吹き飛ばされたその一文を読みたいと思います。
「[現地人が]彼ら自身の記憶をたどるにあたり、ヤシの木ビーチの殺害などまず起こるはずが無いことだったのだと、気づいた。神のご介入以外には説明できない、異例のことだったのである。」
「私の父が槍に刺されたのは、神の徳のご介入によってである、としか説明がつかない。」この息子が言っていることが分かりますか?「神が私の父を殺された。」彼がそれを信じており、私もそれを信じます。
黙示録6:11で、み座の間と福音のために血を流した殉教者たちが、「いつまでですか、おお、主よ。私たちの血を立証してくださるまで、いつまでかかるのですか?」と質問するのを垣間見るとき、「彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』」という返事が帰ってきます。神は、「殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言われます。主は殉教者の数を特定しておられるのです。それが満ちるとき、終わりが来るのです。
代価は苦しみ
代価は苦しみで、教会に対する今日の世界の気性の激しさは、軽減していません。それは激増しており、特に福音を必要とする部族の間でそうです。鎖国などありません。それは外国の観念です。聖書に根付いてもいない、根拠もないもので、いく町々で自分のいのちを投げ出した使徒パウロにとっては、理解できないもの言葉であるはずです。それゆえ、殉教者はこの[み座の]間にいるのです。
統計的に、予測することは簡単です。とある最近の日曜日、迫害にあっている教会に注目する日があり、皆さんの多くがそれに参加しました。この世界宣教団体が参加し、スーダンのようなイスラム政権が組織的にクリスチャンを村八分にし、配置替えし、餓えさせ、一日に500人の殉教者が出るような所のビデオ見たり、話を聞いたりしました。
ミネアポリスのダウンタウンにある私の教会に、スタッフの雇用があるかどうかを探しに来る人々に、私はうんざりしてしまいます。私たちは皆都心部に住んでおり、一番最初にそれらの人々が聞くのは、「私の子どもたちはここで安全ですか?」です。「それを一番じゃなくて、10番目に聞いてくれない?」と言いたくなります。それを耳にするのもうんざりしてしまいます。アメリカ的優先順位にうんざりです。誰が、神の召しであなたの子どもは安全だと言ったのでしょう?
ワイワム[ユース・ウィズ・ア・ミッション(Youth With A Mission)]は私が好きな無謀で過激なグループです。9月1日に[彼らから]Eメールを受け取りました。
「150人のナタで武装した男たちがインドのワイワムチームが居住している建物を取り囲みました。その暴徒たちは、彼らを追い出すよう、他の宗教グループから煽られていました。鍵となる瞬間、暴徒はチーム代表で誰か口を開くよう圧力をかけ、30日の立ち退きの期間を与えることを決めました。チームはそこを立ち退くべきではない、町での働きがかかっている、というような気がしています。未踏の地域ですでに多くの実が実るのを見、さらなる可能性が広がっています。これまで宗教的ライバルグループ間で暴動が起こったとき、人々が命を落としました。彼らに知恵が与えられるよう、お祈り下さい。」
これは私がアメリカで、人々が例えばどこに住もうかと決めるときに耳にするのとは、まったく逆の言葉です。「ここが私の召されたところで、ここが必要とされているところだから、私はここを離れたくない」と人々が言うのを聞いたことがありません。アメリカの福音派の優先順位を逆にすることに、私と一緒に加わりませんか?私たちは快適さ、安心さ、楽さ、安全さに進み、ストレスや、トラブルや、危険から遠ざかるというのが、この私たちの消費文化にしっかり織り込まれているように思えます。それはまったく逆であるべきです!「わたしについて来る者は、自分の十字架を背負って、死になさい!」
ですから私には理解できないのです!それは教会に浸透している、消費者的快適さ、楽さを求める文化の吸収です。そしてそれは安全で、安心で、ちょっといいことをお互いのためにするための、ほんのわずかなミニストリーや教会を作り上げるのです。またほんの小さな安全な旅行が若干の人々を助け救うため、計画されるのです。しかし、ああ、私たちはそこには住みません、サウジアラビアはさておき、アメリカにでさえも、私たちはとどまりません。
約2週間前にアムステルダムで、グレッグ・リビングストン率いるフロンティアと言う、別の過激な団体に語って来ました。何という素晴らしい団体でしょうか。イスラム教徒の間で毎日自分の命を危険にさらす500人が、私の目の前に座っていました。また彼らに耳を傾けたのです!大会最中に彼らはEメールを受け取り、立ち上がってそれを読み上げます。「Xのために祈ってください。昨日彼は3度胸を刺されたのですが、最悪なことに子どもたちが見ている前で刺されたのです。彼は現在病院で危篤状態です。」それから「これはイスラム圏で活動している宣教師です。一緒に彼のために祈りましょう。」と言い、皆で一緒に祈ります。翌日別のEメールが届き、今度はモロッコで6人のクリスチャンの兄弟らが逮捕されたと言います。「彼らのために一緒に祈りましょう。」そして祈ります。大会中ずっとそのような感じでした。そして大会の終わりには、宣教師たちは戻っていく準備ができているのです。
[そのような大会から]私が変えられずにアメリカに戻ってくると思いますか?自分の教会の講壇に立ち上がって、「いい、快適な、楽な礼拝を持ちましょう。リラックスして安心しましょう。」と私が言うと思いますか?ゴルゴタの丘はエルサレムの郊外です。「私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:13)
苦しみは手段でもある
殉教者が出ることと苦しみが伴うことを言いましたが、任務を果たすことの代償について、私はまだ話していません。それは困難が代償であるだけでなく、手段でもあるからです。それは手段です。
私の頭にあるのは、コロサイ1:24、とても重要な聖句ですが、それを読みます。数年前、この意味が私に突然重くのしかかってきました。それがどのようにのしかかってきたのか、お見せします。
「私は、・・・受ける苦しみを喜びとしています」とパウロは言います。彼はとても変わった人でした。「受ける苦しみを喜びとしている」と言うのは、まさに文化に反する、アメリカ的でない、反人間的言い方です。「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだ[すなわち神の選ばれた者の集まり]のために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」さてそれは冒とくスレスレの言い方です。私たちの偉大な神と、救い主イエス・キリストの苦しみの「欠けたところを満たす」と言うのは、どう言う意味でしょうか?
イエス様の血潮の真価と贖いの価値を向上させると彼は言っているのではありません。それは彼の言っている意味ではありません。では、彼は何と言っているのでしょうか?
私のパソコンの聖書プログラムで、ギリシャ語の「満たす」(あるいは「完成させる」)と、「欠けたところ」という言葉を検索したら、この二つの言葉が同時に使われている聖書箇所を一箇所だけ、見つけました。それはピリピ2:30にあります。
ここでエパフロデトがピリピの教会からローマにいるパウロのところに遣わされるという背景があります。彼はパウロにたどり着くために自分の命を危険にさらし、パウロは彼が自分の命を危険にさらしたことを称賛します。ピリピの教会員たちに、そのような人は敬意を持って受け入れるべきだと、それは彼が死ぬほどの病気にかかり、パウロに対する奉仕を達成するため自分の首を掛けたからだと言います。以下が並行する箇所です。
「なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は、私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」
これが、これら二つの言葉、「あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとした」が接続されて用いられる唯一別の箇所です。私の100年以上経つビンセントのピリピ書の注解を開き、コロサイ1:24の完璧な解釈だと私が思う説明文を読みました。ビンセントは次のように言います。
「パウロへのピリピ教会からの贈り物は、からだとしての教会の賜物でもある。それは犠牲を伴った愛の捧げものであった。何が欠けていたのかと言うと、この捧げものを教会が本人に直接手渡すことである。これが不可能であったので、パウロはこの欠けたところを満たすこととして、エパフロデトの愛情ある、熱心な働きによって、彼を代表させるのである。」
ですからローマにお金を送る形で愛を伝えたいけれども、実際にはそれができない、それが[ここでの]絵です。[行きたい人]が大勢過ぎます。また、[ローマは]遠すぎます。それで彼らは「エパフロデト、私たちを代表して、私たちの愛の欠けたところを満たしてくれ。私たちの愛には、ローマで直接その愛を伝えること以外には欠けたところはない。それを持って、パウロに伝えてくれ」と言うのです。
さて、それがコロサイ1:24そのものの意味だと私は思います。イエス様はこの全世界の個々の民のうちにいるご自身の民のために死なれ、苦しまれます。それからみことばの通りに葬られ、三日目によみがえられます。そして主がこの世を支配される、御国へと昇天されます。そして果たさなければならない任務を後に残されるのです。
パウロの自分の宣教に関する自己理解は、イエス様の苦しみのうちに欠けたところが一つだけある、と言うことです。キリストの愛のいけにえは、ご自身が死なれた民に対し宣教師を通して直接現されなければなりません。パウロは、「私はそれを苦しみのうちにする。苦しみを受けることによって、キリストの苦しみの欠けたところを満たすのである」と言います。それは、キリストが大宣教命令を、ご自身の民を通して主の十字架の苦しみを国民に提示するよう意図しておられることを意味します。そのようにしてそれは完成するのです。もしあなたが大宣教命令に加わろうと登録するのであるなら、あなたはそのために登録するのです。
約3年前に『国民が喜びますように(“Let the Nations Be Glad”)』を著すため、イリノイ州ディアフィールドのトリニティ神学院にこもりました。誰にも邪魔されないよう、自分がそこにいることを誰にも知られたくなかったので、こもりました。妻と子どもたちは自宅におり、私は一日18時間働き続けました。
するとJ.オズワルド・サンダーズがチャペルで話すと言うことを聞きました。彼は89歳です。ベテランで、宣教学の素晴らしいリーダーです。「公に身を現して、沢山の人たちと会話し、夕食の招待を受けたりし、何にもできなくなる危険をおかそうか?」と自問しました。でも彼の話を聞きたかったので、チャペルの後部にこっそり入り、彼の話に耳を傾けました。この89歳のおじいさんは講壇に立ち、自分が89歳になったらあのようでありたいという憧れと望みが私のうちからあふれ出てきました。彼はコロサイ1:24を具体化する話をしました。
インドで、福音を語りながら村々をヅカヅカと歩き回る、ある伝道師がいたそうです。彼はいたってシンプルな人で、教育を受けたことがなく、イエス様を心から愛しており、自分のいのちを主のために投げ出す用意ができていました。そして彼は福音を聞いたことがないという村にやって来ました。日も暮れ、とても疲れていましたが、彼は村に入り、声を上げ、広場に集まった人々に福音を伝えます。人々は彼をあざけり、ばかにし、村から追い出します。彼はとても疲れており、精神的にも力尽きていたので、木の下に横たわり、すっかり落胆します。自分が目覚めるかどうかも分からないまま、眠りに着きます。村人がやって来て、自分を殺すかもしれない、それだけは確かでした。
そして突然、日もすっかり落ちた後、びっくりして起き上がります。村全体が彼を囲んで見つめているようでした。自分は死ぬんだと思いました。震え始め、村の大柄の男の一人が、「あんたが一体どんな男かを見に来たんだ。あんたの水膨れの足を見て、聖人だと分かったのさ。何で自分の足に水膨れを作ってまで、俺たちのところに話に来たのか、教えて欲しい」と言うのです。それで彼は福音を宣べ伝え、J.オズワルド・サンダースによると、村全体が信じたと言うのです。それがパウロの言う、「私が苦しみを受けることで、イエス様の苦しみの欠けたところを満たす」の意味です。
さて、J.オズワルド・サンダースについて、少し付け足すことがあります。89歳で彼は、「70の時から本を書き続けている」と言っていました。70歳以来18冊の本!レイモンド・ルルのようにイスラム教徒の間で命を投げ出すべきであるのに、私の教会では、そしてアメリカ全土でも、65歳で人生を捨て、ネバダのゴルフコースで死んで行く人がいます。
レイモンド・ルルは、12世紀の東洋の学者でイスラム教圏で宣教していた者で、引退した後イタリアに戻りました。自分の東洋の言語を活かしてしばらく教えたりしていましたが、やがてそれをやめ、疑問を持ち始めます。「私は何をしているんだろう?このイタリアで死ぬんだろうか。どうせなら、地中海の向こうのアルジェリアで死んではどうだろう?」それで、公の場で宣教することがどのようなことになるのかを理解した上で、造船されて80年以上経つ古い舟に乗り、地中海を越えます。しばらくは地下にこもって教会を励ましますが、あるとき今が時だと決意します。そして立ち上がって福音を宣べ伝え、人々は彼を殺します。何という生き方でしょう!
60歳代の皆さん、聞いて下さい。私は50です。もう少しで60に到達します。「アメリカ退職者の会」から良く手紙が来ますが、私が列車や航空券のシニア割引をしてもらえるよう、私を彼らのリストに加えようとしているのです。もうすぐ60ですので、自問しています(私の教会は私がこれを言うのを聞いたことがあり、後で私を責めるに違いありません)が、あなたは年を取っていると言うとき、私はあなたには殉教で失うものが何もないばかりか、運賃が割引されると言っているのです。
40あるいは50年間職に就くことは、我らの王に謁見する前の残り15年を遊んで暮らすことだと、なぜ私たちは思わなければならないのでしょうか?私には理解できません。それはまったくのアメリカ的嘘です。私たちは65でも70でもまだ力が有り余っています。私の父は77です。イスラエルでバスの事故で母が亡くなったとき、父ももう少しで死ぬところでした。母の遺体とともに救急車で運ばれた10日後に私は父を迎えに行き、はるばるアトランタの自宅まで、そしてアトランタからグリーンビルまで父は背中の傷が大きく開いたまま横たわっていました。傷がひどく、縫い合わせることができなかったのです。父は「神は私に何か目的がおありになるに違いない、神は私に何か目的がおありになるに違いない!」としきりに言っていました。
そしてそれから22年経った現在、父の人生はミニストリーで爆発しています!77歳で父は国民のためにこれまで以上に熱心に働いています。サウスカロライナのイースレーから録音テープを含んだ講義を用意します。そしてそれらは毎年10,000人がイエス様を信じるような、60の国々に届けられています。それは神が私の父を生きながらえさせて下さり、父に引退を信じさせないようにしてくださったからです。
褒賞は満足できるもの
最後のポイントです。そのような愛はいかがでしょうか?どこからそれを得るのでしょう?あなたはそれを受ける用意ができていますか?これを耐え抜くための愛があなたのうちに備わっていると思いますか?
ステファン・ニールの『クリスチャン宣教の歴史(“A History of Christian Missions”)』を読んで下さい。161ページで彼は、福音が日本にやって来た1500年代に何が起こったかを述べています。天皇はキリスト教信仰の日本宗教界への侵入は止めなければならないほど脅威的であると信じ始めました。そして天皇はそれを、まったく信じられないほど残虐的な方法で止めたのです。それは日本全土の教会に及びました。今日の日本の[宣教の]厳しさと難しさの大部分は1600年代初頭の悪魔の(短期間ですが)大々的勝利のせいだと、私は疑いません。
27人のイエズス会の宣教師と、15人の修道士、5人の一般の聖職者が国外追放をうまく逃れました。1617年4月にヨーロッパ人の最初の殉教者が起こり、イエズス会とフランシスコ会の宣教師が大村で同じ時期に、続いてドミニコ会とアウグスティヌス会の宣教師がその少し後で同じ地域で首をはねられました。あらゆる種類の残虐な行為が迫害の哀れな犠牲者たちに用いられました。十字架刑は一般的に日本人のクリスチャンの場合に用いられた方法でした。ある時など70人の日本人[のクリスチャン]が江戸の海岸で逆さ十字架刑にされ、満潮になるに従って溺れ死にしました。
3日前に私はそれを読んで、涙しました。自分の妻が片方で、16歳の息子がもう片方で、打ち寄せる波に覆われていくのを十分に想像できたからです。
あなたには用意ができていますか?あなたのうちにはそれがあると思いますか?そのようなやりくり上手な人は誰もいません。それをどこから得るのでしょうか?それが私が最後に述べたいことです。
あなたはそれを、神の約束を信じることによって得るのです。ヘブル10:32―34はこのように生きるための力をどこから得るかについてを教える、私の好きな箇所です。
「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた始めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。」
そこでちょっと止まって、今読んだ箇所の状況を説明させて下さい。初代教会で迫害が起こりました。ある者はあからさまに公に苦しみを受け、ある者は彼らに同情しました。次の節では投獄された者がおり、彼らを訪問しに行く者がいることを見ることができます。彼らは決断を迫られます。恐らく投獄される者は当時、自分たちの食料や水やあらゆる肉体的必要を、他の者に頼りました。しかしそれは友人や隣人を公にさらし、彼らと同一であるとみなされることを意味しました。誰かがクリスチャンであるがゆえに投獄された場合、それはとても危険な取引でした。ですから捕まっていない者は数時間隠れ、「どうしようか?」と相談し合うのです。そして誰かが「詩篇63:3で、『あなたの恵みは、いのちにもまさる』と言っている。いのちにもまさるんだ。行こう!」と言うのです。
もしマルチン・ルターがその当時そこにいたら、このように言うでしょう。
あなたの品々も妻子も手放せよ。
この死すべきいのちも。
このからだは朽ちゆく。
しかし神のまことは朽ちることなし。
神の国はながらえる。
行こう。
そしてまさにそれを彼らはやってのけたのです。残りの聖書箇所を読みましょう。34節、「あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、・・・自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」
さて、こんなことが起こりました。想像するのは難しくありません。詳細は分かりませんが、こんなことが起こったのです。彼らは受刑者たちに同情した、つまり、彼らのところに出かけて行ったのです。そして彼らの土地、家、馬車、馬、ラバ、大工道具、椅子、あらゆる物が、暴徒らによって火を付けられ、あるいはナタを持った人々によって荒らされ、道に捨てられました。背後で彼らは何をやっているんだろうと後ろからこっそり覗き込んだら、彼らは喜んでいるではありませんか。
もしあなたがこんな風でないのでしたら、誰かに奉仕しようとしたらその人があなたのパソコンをたたき壊したり、またはダウンタウンを運転して奉仕しようとしたら誰かが車の窓を割り、あなたのカーオーディオを盗み、あるいはタイヤを切り裂いたとして、もしあなたがこんな風でないのでしたら、あなたも良い殉教者の候補者にはなれません。質問は、「どのようにしたらこんな風になれるのか?」です。私はこのようになりたいです。それで私はこの聖書箇所が大好きなのです。このようになりたい。
私はこの例の完璧な化身であるとは、言いません。でもこのようになりたいです。そうすれば台所の窓を通って石ころが飛んで来たとき、この2ヶ月でそれが2度起こったのですが、窓ガラスが割れ、私の妻と子どもたちはそれが弾丸なのか手榴弾なのか分からず慌てて伏せ、そんな時、「住むには最高の近所だと思わないかい?」と言えるようになりたいのです。ここにこそ必要があるのです。「十代の子達5人が車で走り去るのを見たかい?彼らにはイエス様が必要なんだ。もし私がここを離れたら、誰が彼らにイエス様のことを伝えるんだ?」
もし小さな息子が自転車から押し出され、誰かがその自転車を盗んで逃げたら、泣きじゃくる息子の襟首をつかんで、「バルナバス、これが宣教師になるってことなんだよ。宣教地に行く準備をしているようなもんなんだ。素晴らしいじゃないか!」と言えるようになりたいです。
2年前に、フロリダ州のペンサコーラで、コロサイ1:24からメッセージを語りました。16歳のアブラハムを連れて行ったので、彼は今私がここで語っている、過酷な苦しみに関することの大部分を耳にしました。家に帰ろうと車に乗り、私の妻がアブラハムに、「神様がこの大会で何を成しておられたと思う?」と聞きました。「僕は世界で一番厳しい国に行く片道チケットを買うんだ」と彼は言いました。彼が言ったのはそれだけです。私は天井に頭をぶつけました。わあ!これは素晴らしいことです!主よ、アブラハムと彼の人生であなたが成されていることに感謝します。
さて、まだこの聖書箇所の主要なポイントを語っていません。彼らは自分の財産が奪われたり自分のいのちを危険にさらすことを喜ぶ、そのやる気をどのようにして持つことができたのでしょうか?ようやく理解しました。「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、」です。これが私が「未来の恵みにある信仰」と呼ぶものです。
あなたがクリスチャンであるならば、神はあなたに言葉に言い表せないほどの素晴らしい約束を差し出しておられます。「『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(ヘブル13:5―6)実際、人はあなたを殺すことができます。しかし敗北はありません。それはローマ8:36―39で言われていることをあなたは知っているからです。
「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。・・・』・・・しかし、・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ですから、あなたに危害を加えることのできるものは最終的には何もありません。イエス様がルカ21:12―19で言われることを思い出して下さい。「中には殺される者もあり、・・・牢に引き渡される者もあり・・・しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」「中には殺される者もあり、・・・しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」それがローマ8章です。すべて、死を含むすべてが、あなたのために働いて益となるのです。あなたが死ぬとき、滅びません。死ぬことは益なのです。
死が益であるときに宣教することこそ、この世で最も素晴らしい人生です。
ですからあなたが、アメリカ的安全と楽さと快適さと隠居生活と引きこもりと虚しさを後にして、進み出るよう祈ります。それらを後にし、この途方もなく力強い活動に加わってください。韓国のように、世界中のあらゆるところで、イエス様のために立ち上がって身を投げ出す用意のできている学生たちがいます。同じようにあなたもその用意をするよう、お招きします。
1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。
2キリスト教月刊誌
3 エクアドルで殉教した南部バプテストの宣教師たち。